唐突だけど、自分が今持っている感情とか、ここの人たちになんとなく伝えてみたいことがあったので臨時でブログを書くというか、書きなぐってます。

 

年が明けても新型ウイルスは居なくならないし、年末年始だからといって休んでくれるわけでもなかった今、今年や来年、再来年の未来まで見えなくなっている気がする。

私も一応大学進学が決まった身ではあるけれど、既に大学側から「リモート授業も行うのでPCを用意してください」という要請がありまして。決まっても大学に通えない日々が続きそうです。

でも、まだ良かったなと思います。

ここのTLの子たちは、来年度が受験の年っていう人が多い気がして、そう考えたときにこの先の選択肢が本当に狭まってしまう可能性があるなと。実際にそう言ってた子も居ます。

 

 

大学進学って、高校進学とは違ってすごく大きな意味を持つと思います。今までは自宅からの通学が基本的な選択肢だったけど、それが一人暮らしで違う土地の大学に進学して、学びたいことを学べる。そんな機会って、大学生じゃなきゃできない。就職は地元でするけど、大学は一旦県を出ます、っていう子もクラスに何人もいるし。

大学の進学先や受験方法を決めるときに、どうしても周りの手や承諾が必要になってしまう。

うまいこと親も先生も納得してくれればいいんだけど、なかなかそうは行かないのが現状。

大学進学を見据えて高校に入ったのに、希望進路が実現しないとしたら。

 

多分、人生に絶望するケースが多いのかな、と思います。

 

 

初っ端から何を言いたいのか分からないけれど、なんとなく自分が今考えていることをつらつら語っていきます。

 

バチクソ重いし暗いから、ブラウザバックしてもらっても構いません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学生の頃、部活動をやっていました。運動部で、県大会を目指すような部活。私は書道も習い続けてて、正直部活をやめたいなって考えてました。本気で打ち込めないし書道もやりたかった、でも部活は続けないといけないという原則がある。やめたいのにやめらんなくて、でも相談もできない。そんな思いでなんとか部活をやり抜きました。

そこから先に待ってたのが、受験。私は自分の偏差値よりも少し高めの県立高校にずっと憧れていて、なんとか先生からのGOサインを勝ち取って、模試でも合格圏に行きました。

そんで、落ちました。

入ったのは、今通っている、受験当日まで入ったこともなかった私立の学校。まあここでならなんとかやっていけるかな、なんて思ってました。

私が人生で一番苦しかったのが、高校の2年間かな。

1年生・2年生と1年ずつバラバラのメンバーで全く違う研究をする。そんなコースでした。

あいにく研究班のリーダーなんてもんになってしまって「うっわ、貧乏くじ引いたな」くらいで済むなんてもんじゃありませんでした。

1年生の研究の指導教員(研究を指導してくれたり、外部の人と掛け合ってくれる先生)が当時のコース主任で。1年目で全然どうしていいかわからないのに無理難題を言われたり、リーダーだからと事あるごとに怒られ、最終的に人格否定までされていました。今思い出してもしんどいっす。

1年生の頃の私は、指導教員に怒られること・グループのメンバーに役割を振って期限までにやらせること・やる気のないメンバーの代わりに予めある程度の資料を作成することが苦しくて、徹夜1歩手前まで作業しては朝泣きながら起きる生活をしていました。

朝起きてベッドの中で泣いたり過呼吸を起こしながら、本気で「このまま倒れれば学校行かなくて済む、怒られなくて済む」と考える日々を送っていたので、希死念慮もひどかったです。

2年生になって指導教員が変わって、少しは慣れてきてなんとなく余裕も出てきました。相変わらず主任には怒られるし色々あったんですが、ね。笑

そしてこんな研究漬けの2年間を送って、大学受験をしました。

総合型(AO)で受けた私大は受かりました。

推薦で受けた国公立は、落ちました。

アホくさいな、デジャブじゃん。そんな感じで今日もなんか生存してます。

 

 

ここで少し大学進学の話をします。

1年生の頃、私は行きたい私大がありました。県外の大学で、自分の将来を見据えたら本当にここに行けたらいいな、という大学。何気なくその話を親にしたら、一言。

「そこ行きたいなら、家売ろっか」

当時16歳高校1年生の私は、慌てて誤魔化しました。そりゃそうだ、奨学金だの何だのっていう話をする前に、家売って私の学費を作るって言われたんだから。ずっと地元で生まれ育った両親からしてみれば、大学進学でわざわざ県外に行くなんて論外で、周りにも「大学は茨城だよ」とさっさと根回しをしていました。

私は小さな頃から過保護過干渉の親に育てられてました。高校も市外の高校は受けさせないとずっとずっと言われてましたし。門限は5時で、ゲーセンもカラオケも高校に上がるまで駄目でした。部屋にも平気で入ってきて本棚だのクローゼットだのを漁られたり。あとは母親が常に私と弟に向かって「うちは母子家庭だ」と言ってきましたし、私が聞いている前で父親の悪口を永遠と祖母に言っていました。うちは父も母もいる家です。

脱線した。

えーっと、そんで。2年生の時か。親に唐突に言われました。

「来年は弟が受験だから、とにかく年内に推薦で大学を決めてくれ」

すごいっすよね、ほんと。県立落ちたからなのかは知らないけど、私はこういう経緯で大学の推薦入試1本に掛けて受験をしました。国公立推薦に落ちても私大で決めたのは、今月から弟の高校入試が始まるからです。笑えます。

 

 

 

ここまで書いてて、自分で何が言いたいのか分からなくなってしまった。

あ、そうだった。

 

えーっと、私は割と推しが多いと思います。でも、だからといって上につらっつら書いたようなことが乗り越えられたわけじゃないです。

「DVD出るまで死ねない」「推しに現場で会うまで生きる」「ハイキューの最終巻を読むまで死んでも死にきれない」

こんなことを思うことは、よくあります。

でも、私にとってこれは結果論に過ぎない。

苦しかったとき、自分の希望する進路が実現不可能だと知ったとき、

「ああ、そしたら生きてても死んでもいいか」

って思いました。

多分ここで普通だったら大好きなアイドルの歌やら言葉やらDVDやらで活力を取り戻すんだろうけど、そんなことは無理です。

一時期私がTwitterに全く浮上しなかったとき、一切推しに対する感情が無かった。

それくらい、どうでもいいと思ってしまったんです。

 

 

今、コロナ禍で色んな人が色んなことで悩んでると思うし、もしかしたら「別に生きてても意味ないや」と思っているかもしれない。

私はたまたま、だらだらと生きているけれど、もしかしたらとっくに居なかったかもしれない。法を犯してたわけではないし、警察に補導されることもなかったけれど、結構やばいことはしていました。多分数十年経ったら後悔するんでしょうけど。

今は辛くても、生きてればいいことあるよ

そんな言葉を掛ける気はあんまりないです。だって結果論だもん。

もしこの先V6や関ジャニ∞が握手会をやってそれで推しと握手できたら「生きててよかった」って思うだろうけど、現時点でそんな保証どこにも転がってないし。

本当にしんどいとき、推しの曲とかなんて聴けないこともあります。

「しんどいことは無理すんな」なんていう歌詞もあるけれど、無理しなきゃいけないことだってある。

話聴くよ、って言ってくれる人の存在はとても嬉しいけどつい「大丈夫」って言ってしまうことも多いと思うし。

 

いつだって、手を差し伸べてくれる人はいる。

でも、その手を掴むまでが辛い。

 

そんなもんなんじゃないかな、なんて思います。

今が辛くてもいつか笑えるよ、なんて、なかなか言えません。

だってまだまだ辛いことはあるし、多分この先何年もこういう傷を抱えて刻んで生きていくんだと思う。

辛いことはずっとそのまま記憶に残ることがあるし、消化なんてできっこない。

それでいいんじゃないかな、なんて妥協して私は人間してます。

 

ただし、忘れてほしくないことがあります。

 

私は、今この文章を見ている人に、ずっと手を差し出し続けてる。周りにも、きっといる。

そして、とても身勝手だけど、少しでも心が軽い状態でみんなに生きててほしい。

 

 

こういう状況下で、上手く行かないことが多いです。

だからと言って、不満とか愚痴とかしんどいこととか弱音とか、そういうのを飲み込まないでほしい。変に大人にならないでほしい。この閉ざされた空間の中だけでも、喚いて泣いて叫んで、そうして息をしててほしい。

そのときに誰かの手や声が必要なら、遠慮なくその手を伸ばしてください。

何もできないけれど、私の手を差し出すから、一緒に深呼吸しましょ。