どうしてもどうしても諦めたくなくてわざわざ看護学部に通わせてもらってまで目指している職業に、本当になれるのか。なりたいのか。

今、どういう目的でこのブログを書いているのかも分かりません。

 

ずっとずっと生きるのが苦しくて、そんな子どもが少しでも減ればいいと思って目指してきたけど。でも私自身まだ苦しいし、本当に教員なんてなっていいのか分からない。自分が教員になることでなにか出来るのかもわからない。

 

あまりにも稚拙で、理想論を説いて、そんなあまっちょろい考え方しか出来ないままあっという間に2年が過ぎてしまったと感じたから。あと1年で教採を受ける人間とは思えないくらい、教育に対しての考え方が甘いと思った。

理想論だけじゃ生きていけない世界で、私はどうすればいいんだろう。

正直これがラストチャンスだと思って挑んだ。親の理解がほぼないままここまで進んでいるから、1年の養成過程に通えるほど甘くない。

でも、教員になる以外の将来が見えないし、分からないし、教員になれなかった私に果たして価値があるのかと言われたらないと思ってる。

どうすればいいんだろうね。

どうすれば、胸張って生きていけるんだろ。

自分が作った傷に意味を見出すために教員を目指すなんて教育に対する冒涜でしかないけれど、そうでもしないと私は今立ってられない。

 

ここ最近の話

V6関係ないです、元々このブログはそういう場所なので。

ただ、今回はすごく重くて苦しくて地獄みたいなやつです。

昔書いたブログと割と関係あるというか、まあ、メンタル激弱人間の話なので........







先月の始めあたりから、ずっと苦しい時間が続いてる。

もちろん、楽しい時だってあるし、実際にこの前も楽しかった。

でも、それでも心の奥底に、どうも拭いきれない希死念慮感がいるんです。

6人が6人じゃなくなってから、なのかなとかって思ったけど、でもそんなことなかった。

結局、自分のメンタルの問題だから。



昨日の夜ここにツイートしたのは、死に損なったからでした。

苦しくて思わず手を離して、我に返って机の上を見たら、携帯のパスワードから銀行口座の暗証番号、カード会社に連絡するのに必要な番号まで全部が走り書きで書いてあって。

喪失感と死ねなかった苦しさと自己嫌悪で、思わず鈍く光るものを手に当てました。

それでもまあ死ねないし、というか経験上分かってたし。

思った以上にやばい事になってしまって、焦ってパニックになりました。

友人に電話しようも、どうすればいいか分からなくて掛けられなくて。

思わずここにツイートしたけど、その後どうすればいいかも分からなくて。

泣いてしまえれば楽なのに、全然泣けなかった。

頼れる大人なんていないし、学部の先生にメールを打てるような状態じゃなかった。いや、送るのはダメなんですけど。笑

本当に苦しくて、今も痛い。

自分なりに上手に処置したつもりだけど、きっとこれは長引くんですよ。



苦しくてしんどくて、でもそういう時にどうすればいいか分からない。そんな人間にならないでください。

「しんどい瞬間」に頼れる人を見つけてください。

苦しかったら泣いてください。

しんどかったらどんな些細なことでもいいし、くだらないことでもいいから吐き出してください。

この狭くて生きづらくてどうしようもない世界で、あなたが少しでも楽に生きることが出来ることを、願います。


生きている中で、数えきれないほどの疑問を持ったと思う。

例えばおなじみ、「おそらはなんであおなのー?」とか。

まあ生きていく中で日々何かしらの疑問を持っているんだと思う。

そしてそれは時に自分自身への問いかけにもつながっていく。

 

 

私は小さいころから「○○くんがすき!」の話題に全くついていけなかった。幼稚園生の時、空気を読むことだけは昔から得意だったらしい私は、みんなが口をそろえて言う「Aくん」が好きだと言っていたらしい。今、そもそも5歳児が恋愛の話をするのがわけわからんな、と思ったけれどうちの弟はしっかりやってた。

そもそも幼稚園では外で駆け回ったり時に家族ごっこなるものをしながらも、水筒を振り回したり階段からジャンプしたりしてたからだいぶやんちゃだった記憶はある。でも大人の前や他の子たちの前では所謂「いい子」だったんだろうな、ほー。

 

いや違う、思い出話のブログじゃねえんだ。

 

あ、そうそう。小さかった頃からそれなりに「すきなひと」についてまったく分からなかった私は小学校に上がり、まあ割と男子と話す。今もだが。ライダーやらウルトラマンは履修していなかったのになぜだ。そこでも「よく遊ぶ仲のいい奴」ばっかりだったし、一緒に登下校していた近所のやつとはお互いの家を行き来した。それでもこれは私の中では「友達」なのだ。

そして小4のとき。あのあたりでプロフ帳が流行った。ちなみにこの前、通っている書道教室で仲のいい4年生の子からプロフ帳を書かされた。8年ぶりだよ。そうそう、そのプロフ帳には「好きな人」の欄があるわけで。全然わかんないから空白で出したら何故か返却される。どうやらその欄を空白で出すのはダメだったらしい。なのでテキトーにその時仲の良かったやつのイニシャルを入れたら、今度は「えー、ありえなーい!笑」と言われた。俺はなんて書けばよかったんじゃ。

 

その後も男子とドッヂボールやら鬼ごっこを真剣にやって中学に上がり、さすがにそろそろ「好きな人」とやらができるんだろうと思ったら、違かった。

周りの恋愛話もついていけないし、そもそも「彼氏」がいるというのは何かすごいのかとも思った。

解禁された漫画を読んでも、少女漫画は「早くくっつけばよくね?」とかばっかり思ってしまって結局ジャンプばっかり。あ、終わセラ……。

 

そして高校生。やっぱりここでも「好きな人」の話になる。なんでだ。高校では気の合う友人が3人いて、私を含めた4人で話すことが多かった。4人のうち男子が2人。個人的には何も思っていなかったけれど、どうやら高校生にもなって男子と友人なのはおかしいらしい。色んな人に「どっちと付き合ってんの?」と言われた。は???

そして転機が訪れる。

 

『ねえねえみあんちゃん、S君に告白された?』

 

は??????????????????????

俺、フリーズ。

その子は気の合う友人の最後の子。どうやらS君はその子に「今度みあんに告白しようと思っている」という相談をしたらしい。

難しいんだな、まじで。

はっきり言おう。私はS君を「気の合う友人」としか認識していないのだ。

そしてなんとこれから10か月後くらいだったかな、もう1人の男子、Y君にも好意とやらを抱かれていたらしい。というか周りからは「え、付き合ってないの?」とばかり言われた。逆になんで付き合うん???

 

ここまで来て、私は「恋愛感情」というものがわからないことに気が付いた。齢17。

【恋愛感情 わからない  検索】

きっとGoogle先生もびっくりだろうな、と思ってPC画面をみたら、なんとびっくり。

「恋愛感情・他人への性的欲求を持たない」という人種がいることが分かったのだ。

よくよく調べれば、結構いる。

どうやら私は「アロマンティック」であり「アセクシュアル」というやつらしい。

きっと10代じゃまだわからないよと言う人が多いとは思うけれども、とりあえず自分のこれに名前を付けることで精神の安定を図ることにした。

そして気が付いたこととしては、自分が恋愛対象にみられるのは非常に気持ち悪いということだった。

 

 

そしてもう一つ。今日のみあんさんのブログは長い。

 

私は、自分の身体構造について疑問を持っている。いや、難しいな。

正確には「ほかの人類はともかく、なぜ自分が女性という役割に分類される生殖機能を持っているのか」という疑問だ。だからと言って、男という性別になりたいわけでもないのが微妙な部分。

自分の身体構造上に女性としての生殖機能を持っているということがまず不可解だし、なぜ自分の身体は女性であるのかもわからない。できれば、自分が「女性」ということも認識したくない。それはなかなかに難しい話なんだけれども。

 

戸籍上の性別が「女性」であることには別にもうどうしようもないしいいや、と思っているけれど、とにかく私が文句を言いたいのは身体構造の話だ。

生々しいかはわからぬが「胸を強調する服」的なものがあまり好きではない。特に制服。私服に関しては気分で量産系のかっっっっっっわいい服を着たいとかも思うけれど、基本は胸元が平らに見える服を好む。

あとはなんだ……まあ男性とは筋力とかそういう面でどうしても劣るからまあ仕方ないと割り切っているけれども、「女の子なんだから痣なんて作らないの!」とか言われるのはよくわからない。なんで?別に一輪車乗れるように頑張ってただけだもん。

それから、女の子達が「女子トーク」を繰り広げているのがしんどい。なんでわざわざ他人に月1の話すんの?あと胸の大きさとか下着の話とか。そこらへんが理解できないのが私だ。

うちの母親は「女の子らしい女の子」を育てたいらしくて、要はひらひらのワンピースの話だ。ひらひらのワンピースとかロングスカートを推してくる。それじゃチャリに乗れないと私が一蹴するのがあまり気に入らないらしいが。だから根本的に服の好みが合わない。高校になって自分で私服を好きに選ばせてもらえるようになってからはそれが顕著に表れている。

 

自分でそこらへんが理解できていない部分もあるけれど、とりあえず自分の性別には疑問しかないので、Xジェンダーという括りで自分を捉えることにしている。私は現象や自分の立場に名前が付くとひどく安心する性分らしい。

 

 

自分でもよくわかっていないし、生きていくうえでだいぶ窮屈だし、そもそもリアルで関わる人には家族含め誰にも言っていないのでもうここでぶちまけてしまう。

 

過去のブログ含め、何か質問があったら気軽にDMとかラインに来てほしい。あとなんか言いたいこととかもあったらどうぞ、空リプでも受付中。

 

高1の秋、通信制の学校に行きたいと本気で考えた。

 

 

毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて……いたわけではないけれども、毎日毎日書類を作成して終わらないと主任兼指導教員に怒られ、教室に持って帰ってグループのメンバーに嫌な顔をされながら指示を出し、それの繰り返し。

夏休み明けに行われる文化祭のポスター作成もそれなりにしんどかったけれど、そんなのとっくの昔、みたいな顔で次々にやることと指導教員の叱責が増えていく。

研究計画書を3か月単位で書かされても、結局そんなの企画が通らなくてただの紙切れに。

当時の研究のためにたくさんの場所に電話を掛けたって、結局「こんなところに聞いてどうする」と一蹴。

うちのコースの研究ってグループ研究で、自分含め4人でやってたんですけど、1人はやる気ゼロで主任にも口答えするようなやつ、もう1人はやる気はあるんだけど話が通じづらくて指示しても結局こちらの手直しが必要になるようなことをやってくるやつ。

お分かりですか、当時は自分ともう1人の子でほとんどの作業をやってました。

 

でも、当方は学生なので、当然授業やら課外がぶち込まれてくる。ちなみに部活もやっていたので、作品作成をしなければいけなかった。連日の終わらぬ作業で睡眠時間がアホみたいに減っていた16歳の私は、授業中眠くて仕方なかった。だんだん数学の内容が理解できなくなっていく。恐ろしい。

今でこそ睡眠時間3‐4時間くらいで次の日もイケるけど、なんせ規則正しい生活を強いられていた中学生だった人間は、1年もたっていないのに短時間で疲労回復ができるはずもなく。

とにかく時間がなかった。

だいたい19時過ぎに家に帰って、ごはん、お風呂、そして授業の課題をやったり書類を作ったりレポートを書いて、グループの人の作業が終わるのを待って手直しして、ということをしてたら2時とか3時なんですよ。恐ろしい。

 

何もできなかった。

このままじゃ、本気でどこの大学も行けないと思った。

 

主任のパワハラに近いような言動、助けてくれない担任、「みあんのところは主任が指導教員だから審査1回でいいじゃん、楽だよね」と言ってくる他グループのリーダー。

 

すべてが、もうしんどかった。

 

大学に行きたい、目標を失いたくない。でもここで生きていきたくない。

そう考えた私は、通信制の高校に行きたいと思い始めた。

 

本気で、調べた。学費、どこにどんな学校があるのか、大学受験で推薦は受けられるのか、何年で卒業できるのか、今の学校の単位はカウントされるのか。

 

 

でも結局、私は言い出さなかった。

 

「そんなんで嫌だって言ってたら、社会に出たときにやっていけないよ」

「社会勉強だって思えばいいんじゃない?」

そんな親の言葉を聞いて、誰が通信制の高校に転校したいなんて言い出せる?

 

お前らは知らないだろ。

書類を何度も書き直しさせられるたびに怒られて呆れられて人格否定される高校1年の気持ちも。

指導教員のOKサインが出ないと言うたびに私に愚痴ってくるグループメンバーの視線の冷たさも。

毎朝毎朝布団の中で死にたい気持ちを抱えることも、比喩ではない傷跡を残していることも。

 

私は結局、変えられたかもしれない未来から逃げた。

誰かに訴えて、本気で逃げる程度のしんどさじゃなかったんだろう。

そうやって片づけた。昔からお片づけは得意だった。

 

 

現在高3の冬、結局入学した高校を卒業する。

 

唐突だけど、自分が今持っている感情とか、ここの人たちになんとなく伝えてみたいことがあったので臨時でブログを書くというか、書きなぐってます。

 

年が明けても新型ウイルスは居なくならないし、年末年始だからといって休んでくれるわけでもなかった今、今年や来年、再来年の未来まで見えなくなっている気がする。

私も一応大学進学が決まった身ではあるけれど、既に大学側から「リモート授業も行うのでPCを用意してください」という要請がありまして。決まっても大学に通えない日々が続きそうです。

でも、まだ良かったなと思います。

ここのTLの子たちは、来年度が受験の年っていう人が多い気がして、そう考えたときにこの先の選択肢が本当に狭まってしまう可能性があるなと。実際にそう言ってた子も居ます。

 

 

大学進学って、高校進学とは違ってすごく大きな意味を持つと思います。今までは自宅からの通学が基本的な選択肢だったけど、それが一人暮らしで違う土地の大学に進学して、学びたいことを学べる。そんな機会って、大学生じゃなきゃできない。就職は地元でするけど、大学は一旦県を出ます、っていう子もクラスに何人もいるし。

大学の進学先や受験方法を決めるときに、どうしても周りの手や承諾が必要になってしまう。

うまいこと親も先生も納得してくれればいいんだけど、なかなかそうは行かないのが現状。

大学進学を見据えて高校に入ったのに、希望進路が実現しないとしたら。

 

多分、人生に絶望するケースが多いのかな、と思います。

 

 

初っ端から何を言いたいのか分からないけれど、なんとなく自分が今考えていることをつらつら語っていきます。

 

バチクソ重いし暗いから、ブラウザバックしてもらっても構いません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学生の頃、部活動をやっていました。運動部で、県大会を目指すような部活。私は書道も習い続けてて、正直部活をやめたいなって考えてました。本気で打ち込めないし書道もやりたかった、でも部活は続けないといけないという原則がある。やめたいのにやめらんなくて、でも相談もできない。そんな思いでなんとか部活をやり抜きました。

そこから先に待ってたのが、受験。私は自分の偏差値よりも少し高めの県立高校にずっと憧れていて、なんとか先生からのGOサインを勝ち取って、模試でも合格圏に行きました。

そんで、落ちました。

入ったのは、今通っている、受験当日まで入ったこともなかった私立の学校。まあここでならなんとかやっていけるかな、なんて思ってました。

私が人生で一番苦しかったのが、高校の2年間かな。

1年生・2年生と1年ずつバラバラのメンバーで全く違う研究をする。そんなコースでした。

あいにく研究班のリーダーなんてもんになってしまって「うっわ、貧乏くじ引いたな」くらいで済むなんてもんじゃありませんでした。

1年生の研究の指導教員(研究を指導してくれたり、外部の人と掛け合ってくれる先生)が当時のコース主任で。1年目で全然どうしていいかわからないのに無理難題を言われたり、リーダーだからと事あるごとに怒られ、最終的に人格否定までされていました。今思い出してもしんどいっす。

1年生の頃の私は、指導教員に怒られること・グループのメンバーに役割を振って期限までにやらせること・やる気のないメンバーの代わりに予めある程度の資料を作成することが苦しくて、徹夜1歩手前まで作業しては朝泣きながら起きる生活をしていました。

朝起きてベッドの中で泣いたり過呼吸を起こしながら、本気で「このまま倒れれば学校行かなくて済む、怒られなくて済む」と考える日々を送っていたので、希死念慮もひどかったです。

2年生になって指導教員が変わって、少しは慣れてきてなんとなく余裕も出てきました。相変わらず主任には怒られるし色々あったんですが、ね。笑

そしてこんな研究漬けの2年間を送って、大学受験をしました。

総合型(AO)で受けた私大は受かりました。

推薦で受けた国公立は、落ちました。

アホくさいな、デジャブじゃん。そんな感じで今日もなんか生存してます。

 

 

ここで少し大学進学の話をします。

1年生の頃、私は行きたい私大がありました。県外の大学で、自分の将来を見据えたら本当にここに行けたらいいな、という大学。何気なくその話を親にしたら、一言。

「そこ行きたいなら、家売ろっか」

当時16歳高校1年生の私は、慌てて誤魔化しました。そりゃそうだ、奨学金だの何だのっていう話をする前に、家売って私の学費を作るって言われたんだから。ずっと地元で生まれ育った両親からしてみれば、大学進学でわざわざ県外に行くなんて論外で、周りにも「大学は茨城だよ」とさっさと根回しをしていました。

私は小さな頃から過保護過干渉の親に育てられてました。高校も市外の高校は受けさせないとずっとずっと言われてましたし。門限は5時で、ゲーセンもカラオケも高校に上がるまで駄目でした。部屋にも平気で入ってきて本棚だのクローゼットだのを漁られたり。あとは母親が常に私と弟に向かって「うちは母子家庭だ」と言ってきましたし、私が聞いている前で父親の悪口を永遠と祖母に言っていました。うちは父も母もいる家です。

脱線した。

えーっと、そんで。2年生の時か。親に唐突に言われました。

「来年は弟が受験だから、とにかく年内に推薦で大学を決めてくれ」

すごいっすよね、ほんと。県立落ちたからなのかは知らないけど、私はこういう経緯で大学の推薦入試1本に掛けて受験をしました。国公立推薦に落ちても私大で決めたのは、今月から弟の高校入試が始まるからです。笑えます。

 

 

 

ここまで書いてて、自分で何が言いたいのか分からなくなってしまった。

あ、そうだった。

 

えーっと、私は割と推しが多いと思います。でも、だからといって上につらっつら書いたようなことが乗り越えられたわけじゃないです。

「DVD出るまで死ねない」「推しに現場で会うまで生きる」「ハイキューの最終巻を読むまで死んでも死にきれない」

こんなことを思うことは、よくあります。

でも、私にとってこれは結果論に過ぎない。

苦しかったとき、自分の希望する進路が実現不可能だと知ったとき、

「ああ、そしたら生きてても死んでもいいか」

って思いました。

多分ここで普通だったら大好きなアイドルの歌やら言葉やらDVDやらで活力を取り戻すんだろうけど、そんなことは無理です。

一時期私がTwitterに全く浮上しなかったとき、一切推しに対する感情が無かった。

それくらい、どうでもいいと思ってしまったんです。

 

 

今、コロナ禍で色んな人が色んなことで悩んでると思うし、もしかしたら「別に生きてても意味ないや」と思っているかもしれない。

私はたまたま、だらだらと生きているけれど、もしかしたらとっくに居なかったかもしれない。法を犯してたわけではないし、警察に補導されることもなかったけれど、結構やばいことはしていました。多分数十年経ったら後悔するんでしょうけど。

今は辛くても、生きてればいいことあるよ

そんな言葉を掛ける気はあんまりないです。だって結果論だもん。

もしこの先V6や関ジャニ∞が握手会をやってそれで推しと握手できたら「生きててよかった」って思うだろうけど、現時点でそんな保証どこにも転がってないし。

本当にしんどいとき、推しの曲とかなんて聴けないこともあります。

「しんどいことは無理すんな」なんていう歌詞もあるけれど、無理しなきゃいけないことだってある。

話聴くよ、って言ってくれる人の存在はとても嬉しいけどつい「大丈夫」って言ってしまうことも多いと思うし。

 

いつだって、手を差し伸べてくれる人はいる。

でも、その手を掴むまでが辛い。

 

そんなもんなんじゃないかな、なんて思います。

今が辛くてもいつか笑えるよ、なんて、なかなか言えません。

だってまだまだ辛いことはあるし、多分この先何年もこういう傷を抱えて刻んで生きていくんだと思う。

辛いことはずっとそのまま記憶に残ることがあるし、消化なんてできっこない。

それでいいんじゃないかな、なんて妥協して私は人間してます。

 

ただし、忘れてほしくないことがあります。

 

私は、今この文章を見ている人に、ずっと手を差し出し続けてる。周りにも、きっといる。

そして、とても身勝手だけど、少しでも心が軽い状態でみんなに生きててほしい。

 

 

こういう状況下で、上手く行かないことが多いです。

だからと言って、不満とか愚痴とかしんどいこととか弱音とか、そういうのを飲み込まないでほしい。変に大人にならないでほしい。この閉ざされた空間の中だけでも、喚いて泣いて叫んで、そうして息をしててほしい。

そのときに誰かの手や声が必要なら、遠慮なくその手を伸ばしてください。

何もできないけれど、私の手を差し出すから、一緒に深呼吸しましょ。